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タイ王国・スタディツアー2017

一般財団法人青少年国際交流推進センターの自主事業「タイ王国・スタディツアー2017」が、平成29年3月13日(月)~ 21日(火) に実施されました。

このスタディツアーは、タイの児童養護施設を訪れ子供たちの生活環境を知ることと、現地で行われる青少年健全育成プロジェクト「For Hopeful Children Project(FHCP) 2017」にボランティア・スタッフとして参加し、現地の実行委員と協働して子供たちをサポートすることを組み合わせたプログラムで、今年は、大学生と社会人を含む参加者18名と同行職員2名の合計20名が参加しました。

スタディツアーでは、国際協力活動の実践とともに、参加者の国際協調の精神を養います。また、現地の青少年育成について理解を深めることで、日本とタイの友好関係や連携を強化し、国際社会の進展する時代にふさわしい青少年の育成に寄与することを目的としています。

タンマヌラックの子供たちと
月日 活動内容
3月13日(月) バンコク集合
3月14日(火) カーンチャナブリー県へ移動
子供の村学園ムーバーンデックでの活動
子供たちと川遊び
子供たちとの交流会(折り紙、縄跳び、ボール遊びなど)
施設内のゲストハウス(伝統的高床式木造住居)に滞在(2泊)
3月15日(水) タンマヌラックでの活動
子供たちとの交流会(折り紙、縄跳び、ボール遊びなど)
施設内見学(宿舎、教室、食堂、農園・きのこ栽培所など)
子供の村学園ムーバーンデックでの活動
施設内見学(宿舎、教室、リサイクル工場、農園・養鶏・養豚場など)
学園評議会見学
子供たちと川遊び、歓迎交流会(文化紹介交流)
3月16日(木) サムットプラーカーン県(バンコク郊外)へ移動
FORDEC幼稚園での活動
子供たちとの交流会(文化紹介交流、折り紙、ボール遊びなど)
支援家庭(近隣の低所得層家庭)訪問
3月17日(金) チョンブリー県へ移動
FHCP2017ボランティアスタッフ・ミーティング
3月18日(土) FHCP2017
開会式
海兵隊によるドッグ・ショーやパラシュート・デモンストレーション
海水浴、参加団体によるパフォーマンス披露
3月19日(日) FHCP2017
軍用船乗船体験、海兵隊訓練体験、消火活動体験
日本文化紹介ブース、海水浴、参加団体によるパフォーマンス披露
3月20日(月) FHCP2017
閉会式、子供たちを見送り
バンコクへ移動、夕食
3月21日(火) バンコクにて解散
子供の村学園ムーバーンデックの子供たちと
子供たちと折り紙で遊ぶ(タンマヌラック)
今回訪問した児童養護施設(全て、FHCP2017にも参加)
  • 子供の村学園ムーバーンデック( カーンチャナブリー県)

    1979年設立の子供財団が運営する学園。両親のいない又は貧困・家庭崩壊などの事情で育児のできない家庭出身の小学生以上の子供たち約120名が、大自然に恵まれた環境で共同生活を送る場であり、タイ教育省から認可を受けた学校でもあります。

    創始者ピボップ・トンチャイ(Mr. Pibhop Dhongchai)氏の理想は、子供と大人が平等に生活できる学習の場を作ることであり、タイ国内で行われている型にはまった教育方法でなく、より優れた教育方法を求め実践することを目的に設立されました。子供たちが既成の概念にとらわれることなく、自分たちに最も適切なやり方(「オルタナティブ教育」と呼びます)を受けることができる小さなコミュニティです。このようにしてできあがったこの学園の最大の目的は、自由と自治を通して、子供たちが自分自身を完全に理解し、人生の意義を発見できるようにすることです。

  • タンマヌラック( カーンチャナブリー県)

    仏教の尼僧が2000年に設立した児童養護施設で、少年僧や少女の尼僧、また、タイ・ミャンマー国境地域で生まれた少数民族(カレン族、モン族等)の子供たち約110名が共同生活を送っています。

  • FORDEC(フォーデック)幼稚園( サムットプラーカーン県)

    FORDEC(フォーデック)は、低所得層家庭などに対する生活支援を行うために、1998年に設立された非営利団体です。支援を受けている人の中には、障がい者、ホームレス、麻薬中毒者、虐待を受けた経験を持つ人などもいます。創始者アムポン・ワッタナウォン(Dr. Amporn Wathanavongs)氏は、自身が身寄りのない孤児として、住む家もなく、食べるものも十分にない生活を送った経験から、自分と同じ体験をしてほしくない、という思いで、困難を抱えた全ての人々に対する愛と心配りのため自身の人生をささげる決意をしました。

    今回のスタディツアーでは、サムットプラーカーン県にある同団体が運営する幼稚園を訪問し、近隣の低所得層家庭から通ってくる子供たちと交流した後に、彼らの住宅訪問を行いました。幼稚園には、就学前の子供たち約200名が通っています。

ダルマ落としで遊ぶ(ムーバーンデック)
子供たちと一緒に踊る(ムーバーンデック)
子供たちと縄跳びで遊ぶ(タンマヌラック)
子供たちとソーラン節を踊る(FORDEC)
子供たちとボールで遊ぶ(FORDEC)
子供たちと折り紙で遊ぶ(FORDEC)
For Hopeful Children Project (FHCP) 2017概要

FHCPは、第2回「東南アジア青年の船」事業のタイの既参加青年であるウィスィット・デッカムトーン(Mr. Visit Dejkumtorn)氏が、自身のネットワークをいかし1991年に始めた事業で、非営利団体Fund for Friends(FFF)が毎年実施し、今年27年目を迎えました。

孤児や難民、山岳少数民族、障がいを持っている子供たちなど、社会的困難を抱える子供たちを「希望あふれる子供たち(HopefulChildren)」と呼び、彼らをチョンブリー県にあるサッタヒープ海軍施設(Satthahip Naval Base)に招いて、2泊3日、海水浴などの活動を行います。子供たちと引率者、そして、タイとブルネイ、ラオス、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、ベトナム、日本などからのボランティアを合わせ、参加者総勢約1,000名の一大プロジェクトとなりました。

タイ各地から集う子供たちの会場までの移動手段であるバスやその燃料、食材の野菜、米や油その他、FHCPの運営に必要なもの全てが、企業・団体・個人の寄付によって賄われています。地元企業による協賛やチャリティーによる食べ物の屋台が出て、子供たちに料理やおやつが振る舞われました。

海水浴の安全管理や会場運営において、タイ王国海軍・海兵隊の兵士たちが全面協力しました。期間中、子供たちは、海兵隊のドッグ・ショー、パラシュート・デモンストレーションや、軍用船乗船体験、消火活動体験、各団体によるワークショップなどを楽しみました。

For Hopeful Children Project (FHCP) 2017参加団体(一部抜粋)
  • CCD(Christian Care Foundation for Children with Disabilities in Thailand)

    バンコクの北、ノンタブリー県にあるCCDは、経済的理由などで育児のできない家庭出身の障がい児(視覚・聴覚障がい、肢体不自由などの身体障がい、精神・知的障がいなど)を支援しています。

    CCDの活動は、1986年に、英国Christian Outreach for Relief & Development(CORD)のサポートにより、ワサン・セーンウィアン(Mr. and Mrs. Wasan Saenwian)夫妻が、障がい児のための児童養護施設「レインボー・ハウス」を設立したことから始まりました。1997年には、CORDのサポートでCCDとしてタイにおける非営利団体登録をし、地域密着型福祉を目指した活動を実践中です。

    両親がまだ10代のため障がい児に対応できないケースや、重度の障がいを持つ子を施設に入れる経済的余裕がないケースなど、様々な理由から障がい児の育児放棄が起きます。様々な理由で親を知らない子供がいますが、CCDでは、どんな理由があろうと子供は産みの親を知るべきと考えており、子供たちが産みの親と再会できることを目標の一つにおいています。

    CCDには通年で受け入れている欧米各国や日本からの青年ボランティアがおり、FHCPへの引率などのサポートもしています。

  • CFBT(Christian Foundation for the Blind in Thailand)

    CFBTは、タイ王室プロジェクトを行う財団で、タイ全土に視覚障がい者の支援施設を有し、約2,000人の視覚障がい者を支援しています。今年は、バンコク、ロッブリー県、ナコーンラーチャシーマー県、ナコーンナーヨック県の施設から子供たちが参加しました。同団体は、地域のサービスセンターが管轄する地方保健所や国内外の非営利団体と協力体制を構築し、失明予防を目的とした活動も行っています。施設には、視覚障がいとともに、精神障がいや身体障がいなどの重複障がいを抱えている者も多くいます。

  • チャンタブリー特別支援教育センター

    タイ東部チャンタブリー県にある、自閉症や知的障がいを持つ子供たちを対象にした児童養護施設です。

  • ファーザー・レイ財団

    アメリカ合衆国出身のカトリックの司祭レイ・ブレンナン(Mr.Ray Brennan)氏が、1974年に、孤児や虐待された子供、障がい児等の受入れのため設立した施設。文字どおり、多くの子供の「ファーザー(父)」として、子供たちの教育や生活の支援を続けました。2003年、彼の葬式には多くの子供たちが参列、また彼の功績を称え、国王の名の下、タイ王室から墓に埋葬される「王室の土」が贈られました。

  • 感謝の家

    バンコクの北、ノンタブリー県で2012年1月に運営を始めた非営利団体で、知的障がいやその他の障がいを持つ若者(その多くは若い女性)の自立支援をしています。職業訓練として理髪、タイマッサージ、タイ舞踊、音楽、芸術、英語などの技能を身につける支援もしています。

  • 40ライ・オンヌットコミュニティ

    バンコク・オンヌット地区から、低所得層家庭の子供たちが参加しました。

  • ラヨーン子供福祉保護センター

    タイ中部ラヨーン県から、両親のいない又は育児のできない家庭出身の子供たちが参加しました。

  • パック・クレット少年の家

    バンコクの北、ノンタブリー県パック・クレット地区の、両親のいない又は育児のできない家庭出身の少年たちが暮らす公的児童養護施設です。

  • バンコク難民センター

    バンコクで一時的庇護を受け、将来的には第三国定住を目指している難民の子供たちが参加しました。子供たちの出身地域は、ベトナム、パキスタン、イラク、パレスチナ、ソマリア、コンゴ共和国、エチオピア、ナイジェリアなど、世界各地に及びます。

  • タイ北部山岳少数民族の子供たち

    タイ北部山岳地域にはたくさんの少数民族が暮らしており、今でも独特の文化や伝統、生活習慣が残っています。今回は、チエンマイ県の子供たちが参加しました。山岳地域出身の子供たちにとって、FHCPへの参加は白い砂浜や青い海を見ること自体が稀で大変貴重な機会です。

  • タイ南部3県イスラーム教徒の子供たち

    イスラーム教徒が人口の多くを占める、タイ南部ナラーティワート県、パッターニー県、ヤラー県の子供たちが参加しました。その中には、以前同地域で起きた暴動で両親や家族を失った子供たちもいます。

子供たちと海水浴を楽しむ(FHCP)
子供たちと遊ぶ(FHCP)
FHCP閉会式
【参加者感想文】
長田律人

このプログラムに参加をして感じたのは、施設の子供たちのたくましさ、苦しい生活の中でも希望を持ちながら過ごしているという点だ。

おおまかに、三つの施設を巡る機会があった。ムーバーンデックは幅広い年代の子供が在籍し社会へ輩出するまでフルサポートをしていること、タンマヌラックは比較的幼少の子供のサポートに注力していること、フォーデックは都市の中で貧困層の子供のサポートをしていること、それぞれに特徴があった。

ファーストコンタクトの際どのように接すれば良いのかわからないことも多く「子供たちは親がいない」という先入観から離れることができなかった。そのため、子供たちは明るく振る舞う裏に、心のどこかに闇の部分を持っているのではないかという憶測が頭をよぎった。しかし、打ち解けていくうちに子供たちは自身が置かれている状況を理解し、克服しているように感じた。

日本で育児放棄等の問題がニュースで取り上げられる際、経済的な負担がピックアップされている。だが、国境に近い二つの施設に預けられた子供たちは親の経済的な問題というよりも、子供を安全に育てることができる環境に預けたいという、親の強いメッセージのようなものを感じることができた。そのようなことを、しっかりと理解した上で彼らの生活が存在していると考えると感慨深い気持ちになった。

フォーデックに移動している際、バスから見える景色は閑静で新しい住宅街と、新型の日本車ばかりでどこにゴミの荒野があるのか分からなかった。案内していただいて初めて見ることができた。このゴミの広場に高級住宅に住んでいる近隣住民がゴミを捨てることが、ゴミの広場に住んでいる人々にはありがたく、その中から自分たちが使うことのできるものを探すことができるため、負のスパイラルが存在している。高級住宅街とゴミの広場の境には2メートルほどの高い壁があった。これは物理的な壁であることはもちろんのこと、心の壁でもあるのではないかと思った。特に発展途上国などでは貧富の差が拡大する中で、弱者に対してのケアがおざなりになり、富める者が一向に再分配をしない傾向が強いのではないか。「仕事はいくらでもある」「探さないのが悪い」というのが強者の言い分だろう。彼らは住所や門地もなく、衛生的な問題も存在する。そのようなことを加味すると、雇用しようとする会社は少ないであろう。このような問題は解決するのに時間がかかると思われるが、ボランティア活動や政府の関与でサポートしていくことが重要であると思った。

活動が終わり、バンコクのホテルに戻るとき高級ショッピングモールで親と買い物をしている子供を見た。プログラムが始まる当初は何も感じることがなかったが、この子供は親もいて、きれいな洋服を着てとても幸せな環境で生活をしているのだと思った。この感情はプログラムを通し芽生えたもので、今後も大切にしていきたい。

【参加者感想文】
林詩穂里

10日間のタイでの生活を終え、日本でまたいつもの生活に戻ると、子供たちは何しているかな、ボランティアのメンバーたちは元気かなと思うことがある。たったの10日間だったが、様々な人と出会えたことは忘れることのできない経験となった。書ききれないほど気付きや考えたことはあるのだが、特に子供との関わりで感じたことが多かったため、このことについて報告したい。

FHCPには、様々な環境にある子供たちが集まり、私たちボランティアとアクティビティをするなどして過ごした。子供たちの中には、自然いっぱいの村で過ごしている子、難民の子、障害のある子などがいた。おかれている状況が異なっている人たちが年に一度集まって楽しく過ごすというイベントがあることで、その子たちの生きる楽しみになると同時に、共に生きる社会づくりや、他者理解の促進にもつながると思った。また子供たちだけではなく、ボランティアをした私も、助け合って生きるということが大切であることに再度気付ける機会となった。日本でも積極的にこのようなイベントが行われるとよいと思った。

人と関わる中で大切にしたいと思ったのは、「素直な心」である。これは子供と同じ目線に立って考えることであり、大人になると足りなくなってくるものなのではないかと私は考えている。大人になってくると、子供の安全確保をする、見守る立場になることが多いことに気付いた。これは大切なことであるが、子供と同じ時に同じことを楽しむことが、子供にとっても一番の経験になるのではないかと考えている。子供たちと一緒になって騒いで、手をつないで、手を引かれたところに行って何かを見つけて、体を押して川に落とし合って、一緒に笑って…ということがとても楽しいと思え、子供たちも笑顔で応えてくれた。子供がやりたいこと、見せたいもの、伝えたいことを同じ目線で感じ取って、一緒に楽しさを共有することが素直な心であると感じ、「楽しい」を共有すると嬉しいということにも気付くことができた。この「素直な心」をもつことは、自分の関心分野(特別支援教育)の視点から考えると、子供の経験を増やすことにつながると考えている。子供に障害がある場合は、自ら外界に働きかけることに不安を覚えることも多い。そのため、私から「やってみようよ」と一緒に活動することの楽しさを伝え、様々な物事に関心をもつ機会を増やしたいと思っている。

タイスタディツアーは、多くの子供はもちろん、他国のボランティアの方々や日本のメンバーと関わって、毎日が楽しくて、楽しみで、本当に充実した10日間であった。今後は今回の経験から、教育のみでなく、日本文化、環境、貧困などの多角的な視点でも考えたことを掘り下げ、自分ができることは何かを考えていきたい。

【参加者感想文】
河野彩音

去年の秋に、内閣府青年国際交流事業でリトアニアを訪ね、長いプログラムを通して様々な人と出会い、実に多くのことを学んだ。現地では、ソ連時代の傷跡が街の至る所にあったものの、多くの国民が自宅にサウナを持つなど、ごく普通の暮らしをしているように見受けられた。そのリトアニアでは学ぶことのできなかった、貧困問題や恵まれない子供たち、そしてインフラ整備されていない地域に今度は焦点を当てて視野を広げてみたいと思ったのが、今回この事業に参加を決めた理由である。

現地では、ムーバーンデックとタンマヌラックの計二つの孤児院を訪ね、これが私にとって人生初の孤児院訪問となった。孤児院は子供たちの笑顔で満ち溢れていた。しかし、子供たちと触れ合うに従い、そこには希望に満ち溢れた笑顔、元気いっぱいの笑顔の子供もいれば、過去の辛い経験が心に残り、寂しさをどこかに隠すような笑顔をした子供もいることに気付く。そんな子供たちに一生心に残るようなすてきな思い出を作ってあげること。それが、今回の私たち20名の使命であると感じた。

子供たちとコミュニケーションを図るのに、英語は殆ど使い物にならなかった。相手が子供ということもあるが、海外でさすがに、ここまで言葉が通じなかったのは正直初めてだった。そこで私が実践したことは、「笑顔でコミュニケーションをとること」、「全身で気持ちを表現すること」の二つである。“A warm smile is the universal language of kindness.”という言葉があるように、子供たちに微笑むと子供たちも微笑み返してくれる。そこで交わす言葉は一つもない。そして、自分の気持ちは全身で表現する。ムーバーンデックで川遊びをした際に、プールでも海でもない川に入ることを恐れていたが、手を引っ張られ、肩まで浸かり、水を掛け合うことで、子供たちの輪の中に入ることができたような気がした。きっと、子供たちにもっと寄り添いたいという気持ちがそうさせたのだろう。私にとって、それは子供たちによる歓迎式のように感じた。その歓迎式があったからこそ、別れ際にとてつもなく名残惜しい気持ちになったのかもしれない。

FHCPでは、難民の子供たちの施設のボランティアとして活動をした。ここでは、他の施設とは違い、タイやベトナムだけでなく、ソマリア、パレスチナ、ナイジェリア、イラクなど世界中の子供たちが一時的にタイに難民として滞在しているのである。英語が話せる子もいれば、アラビア語、ベトナム語、タイ語しか分からない子もいる。その中で、子供たちといかに信頼関係を築くことができるかが一番の課題だった。初日に子供たちに会ったときは、きっと私のことを「外国人のボランティアのお姉さん」と思っていたのだろう。しかし、子供たち一人一人の言語で挨拶をし、一緒に食事をとるうちに、「ボランティアのお姉さん」から「友達」になり、お互いに名前を呼び合い、将来や家族の話を交わすうちに、「友達」から「兄弟姉妹」のようになったのを身を以て感じた。

挨拶をするときには、手を合わせて「サワディカー」、お礼を言うときには「コープクンカー」。国歌が流れると起立するよう互いに促し合い、終わると礼をして座る。生まれた国も、これから行く国も違うであろう子供たちが同じ場所に集まり、どの国でも生きていく覚悟を持ちながら、手を取り合って生活していた。孤児院とは違い、難民の子供たちは施設に長くいるわけではない。もしかしたら既にタイを出国してしまった子もいるかもしれない。何らかの理由で、タイに一時的に滞在し、年に1度のFHCPに集い、そこで一人一人に出会えたことが奇跡のように感じた。これから世界中に散らばって生きていく「兄弟姉妹」たちに幸運を。

一般財団法人青少年国際交流推進センター主催

国際交流リーダー養成セミナー

「世界の難民事情 ~私達が今、考え行動すべきこと~」
国連UNHCR協会 ファンドレイジンググループ 団体総括 中村恵

平成29年3月25日(土)、国連UNHCR協会の中村恵氏をお迎えし、国際交流リーダー養成セミナーを実施しました。中村さんは第9回「東南アジア青年の船」事業(1982年)の参加青年で、第23回「東南アジア青年の船」事業(1996年)ではナショナルリーダーを務められました。

本セミナーでは、参加者はまず、増え続ける難民や国内避難民の存在について基調講演を通して学び、後半では「いのちの持ち物けんさ」と題するワークショップを体験し、難民問題に対して参加者それぞれができることについて考えました。

今号では、以下に基調講演(抜粋)を紹介します。

中村恵(なかむらめぐみ)さんプロフィール

東京外国語大学フランス語学科卒業後、フランスに留学。外資系企業勤務を経て、1989年に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に就職。ジュネーブ本部、駐日事務所広報室勤務の後、ミャンマーにて、援助現場での活動に従事。2000年末にUNHCRを退職し、筑波大学大学院修士課程カウンセリングコースを修了。日本の民間からUNHCRへの公式支援窓口であるNPO法人国連UNHCR協会(Japan for UNHCR)の設立(2000年10月)に関わり、現在も職員として活動している。第9回「東南アジア青年の船」事業(1982年)参加青年、第23回「東南アジア青年の船」事業(1996年)ナショナルリーダー、第29回「東南アジア青年の船」事業(2002年)アドバイザー、21世紀ルネッサンス青年リーダー招へい事業(2004年)マネジメントコースアドバイザーを務める。

激動の時代にUNHCRへ

私は1989年3月末にUNHCRに就職しました。それまでは外資系企業でコンピューターシステムの開発部門にいましたが、英語とフランス語とコンピューターを扱える人をUNHCR本部が公募していると知人が教えてくれました。思い切って応募してみたら運よく採用され、国連職員になりました。

それから激動の時代が始まるなんて想像もしていませんでした。1989年前半と言えば、インドシナ難民の問題について日本を含む東南アジア地域全体が解決方法を模索している時代でした。UNHCR本部では、難民問題と開発をどのようにつなげていくのかについて検討されていました。11月になると、東ヨーロッパでベルリンの壁が崩れ、12月にはルーマニアの大統領夫妻が死刑になり、突如として時代が変化し始めました。当時私はジュネーブにいた若手の国連職員たちと「いったい何が起きるんだろう?」と心配していました。90年1月初めに彼らと一緒にベルリンに行って壁の石を拾って来たりしましたが、その後、ベルリンの壁が崩れたこととUNHCRとの間につながりがあるということを、身にしみて体験しました。

それはリストラでした。なぜベルリンの壁が崩れるとUNHCR職員が削減されるのでしょうか。その理由を知るには、UNHCRが設立された理由にさかのぼる必要があります。UNHCRは1950年12月の国連総会で設立されました。1945年に第二次世界大戦が終結し、東西冷戦が始まり、東ヨーロッパが共産化されて以来、自由を求めて西側に向かう人の流れがありました。東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩れ、冷戦が終結するということは、難民問題が解決の方向に向かうはずであり、UNHCRという組織は縮小できると思われたのかもしれません。1990年には大幅な人員カットがあり、私のポストもその対象になりましたが、その頃に担当していた業務の関係でシステム部に移動できたため、そのまま残ることになりました。

緒方貞子さんが国連難民高等弁務官に

ジュネーブ本部にいた1991年に私にとっては衝撃的なことが起きました。それは緒方貞子さんがトップとして来られたことです。そろそろ日本に帰ろうかな、元の会社の方が待遇もよいので戻れるうちに戻ろうかなどと思っていたところに、緒方貞子さんが現れました。緒方さんは、1990年12月の国連総会で第8代の国連難民高等弁務官に選出された時には「難民問題は解決に向かうのだろう」と思いながら引き受けられたそうです。

ところが、1991年1月にイラク軍がクウェートに侵攻し、湾岸戦争が起きました。緒方さんがジュネーブにいらしたのが2月で、最初に対処しなければならなかった事態がクルド難民の問題でした。クルド人とはイラク国内でフセイン政権から迫害されていた少数民族でした。イラク軍の敗戦直後に、クルド人はイラク政府に反旗を翻したものの敗退し、イランやトルコ国境に押し寄せました。しかし、トルコは国境を開けませんでした。トルコは国内のクルド人による独立運動に悩まされていたので、さらに大勢のクルド人が入って来ることを恐れたわけです。そのため、イラクの山岳地帯でクルドの人たちがどこにも行けないという状況になっていました。高等弁務官に就任したばかりの緒方さんは、そこへヘリコプターで視察に行くことになりました。予想もしなかった事態に直面して、彼女は覚悟を決めたそうです。翌1992年にはバルカン紛争が起き、ユーゴスラビアが最終的には6か国に分裂していくプロセスが始まりました。

この時代には、私が小学校や中学校、高校の頃に習っていた世界地図が古い地図になってしまう、いわば、世界秩序の変動が起きていました。

この頃、私はUNHCRという組織や難民問題っていったいどうなっているんだろうと考えるようになっていました。それまでシステム関連の仕事をしてきたので、難民問題そのものをしっかりと学んだことはありませんでした。しかし、UNHCRの一員として、何が起きているのか知りたいと心底思いました。そこで、駐日事務所の広報室による民間寄付担当者の公募に応募し、93年2月に東京に転勤しました。国連職員は内示が出て異動するのではなく、ポストの空きが公開され、自分で応募し、選考を経て採用された結果、異動するのです。

4年間近く東京で勤務した後、第23回「東南アジア青年の船」事業のナショナルリーダーをお引き受けしました。その後に、UNHCRミャンマー事務所に赴任することになるのです。

先進国出身者は体力がない

1997年12月から99年4月初めまで、ミャンマーでUNHCRのフィールド業務に従事し、援助活動の最前線を体験しました。感染症予防として、日本脳炎、腸チフス、狂犬病、A型肝炎、B型肝炎、破傷風など様々な予防接種が必要でした。私はミャンマー赴任前に接種しておいたつもりなのですが、ミャンマー奥地での生活が始まってから、医者の資格を持つスーダン人の同僚から「予防接種の回数が足りていない」と言われました。他にも同様な同僚がいたので、足りない分のワクチンを注文してもらって、それから1か月ぐらいにわたって毎週注射を打ってもらいました。

ミャンマーにいた間に、根元が腐っていた柱のせいでひっくり返り捻挫し、1か月間、松葉杖で生活しました。住んでいた地域には医者がいなかったので、隣国バングラデシュのコックス・バザールの病院まで連れて行ってもらいました。バングラデシュ人のお医者さんから「僕は2,000人もの患者を診てきた。君の足は1か月で治る」と予言されて、実際そのとおりになりました。

UNHCRのフィールドでは、日本の都会では想像できないような生活が続きます。赴任先が先進国だと任期は5年間程ですが、生活環境が厳しい国での任期は2年くらいです。フィールド業務に従事するにはスタミナが必要です。私は途上国出身の同僚たちの体力に尊敬の念を抱くようになりました。例えばエチオピア出身の同僚は子供時代に毎日2時間歩いて学校に通っていたそうです。北京出身の同僚と私は、「私たちはシティ・ガールだからすぐ下痢してしまう」とよく話していました。私たちが下痢しても、アフリカ出身の同僚は下痢なんかしませんでした。これだけでも、生物として自分の方が劣っていることを見せつけられたように感じました。

そんな経験から、このまま私がUNHCRで働き続けていくのは、肉体的に厳しいと感じていました。精神的にはどんなことが起きてもかなり安定していて、自分がタフだということは分かりました。でも、体はやはり「生もの」なので、日本の都会で暮らしてきた私は生物としては弱体化していると感じました。この現実を前にして、最前線の援助現場での仕事はできる人たちにお任せして、私は日本からできることを見つけたいと思いつつ、日本に帰ってきました。

その頃に、今所属しているUNHCR協会を立ち上げる話が進み始めていました。後方支援としてUNHCRの活動を応援することが私のミッションなのかもしれないとの思いがあり、設立に関わりました。これが私自身のバックグラウンドです。

ターニング・ポイントとなった2011年

ここからは難民についてお話しします。まず、難民とは誰か?国内避難民とは誰か?ということです。2011年を境に紛争によって家を追われた人の数が急増しています。「アラブの春」がシリアにも飛び火して、3月に内戦が起こります。シリアは人口が2千万人強の国ですが、これまでに30万人もの人々が命を落としました。

2011年7月には、スーダンから独立した南スーダンという新しい国ができました。しかし、南スーダンでは2013年12月に内戦が勃発、去年の7月にまた首都で戦闘が再燃し、難民を出す国になっています。

2016年末の統計では、世界中で家を追われた人は過去最高の6,530万人にのぼりました。この表を見ると(表1)、上の青い方が難民や保護申請者という、いわゆる自分の国から他の国に保護を求めた人の数で、下の緑色の部分が国内避難民で、国内にいながらいわゆる人的災害によって、自分の家から他の地域に逃げなくてはならなかった人たちです。

表1

歴史を振り返ると、先ほどお話しした1989年が一つのターニング・ポイントの年だったと思います。アメリカとソ連(当時)が作り出した冷戦構造が転換期を迎えたのが1989年でしたが、2011年も世界史的に一つのターニング・ポイントの年になるのではないかという気がしています。

今では、国内避難民の数の方が難民の数よりも多くなりました。私が1990年代にUNHCRで仕事をしていた時代とは様相が違います。90年代の前半まではUNHCRは1951年にできた難民条約に基づいて仕事をしていて、あくまでも自分の国から他の国に保護を求めた難民を支援するのが任務でした。しかし、東西冷戦という枠組みが崩れ、国境を巡る争いがバルカン半島で生じました。また、ソ連という国が、ロシア、ベラルーシ、グルジア等の別々の国へと分裂していきました。誰が難民なのか、誰が国民なのか、人間は同じなのにいる場所によって難民だったり国内避難民だったりという状況が生じていました。

人道支援と開発支援の違い

人道支援と開発支援は異なります。人道支援とは人権を守ること、人が生きのびられるように助けることです。UNHCRは人道支援の組織です。一方、計画的に開発していくこと、5年計画で橋を造るとか、10年計画で豊かになりましょうというのが開発支援です。

私は今、人道支援の話をしています。今の世の中には、国内で避難を余儀なくされている人たちを国際社会が助けなければならないという気運があります。国内避難民は自国の政府が助ければよいのではないかと思うかもしれません。でも、その政府がきちんと機能していない国があります。南スーダンでは、大統領と副大統領が派閥争いをして、内戦になりました。今のように情報が瞬時に世界を駆けまわるような状況で、「あれは南スーダンで起きていることだから、私たちには関係ない」とは言えません。知った以上は助けたいと思うのが人情なのではないでしょうか。

表2

難民の流出国と受入国を示す興味深い表があるので紹介します。(表2)難民がどこから出てどこへ逃げているかを示しています。一番難民を出している国はシリアです。次はアフガニスタン、ソマリア。受け入れている国は、トルコ(シリアから)、パキスタン(アフガニスタンから)、レバノンは(シリアから)です。しかし、今では南スーダンからの難民数はソマリアより多くなり、160万人が周辺国に流出し、国内避難民も210万人に上っています。

対話によって解決する方法を学ぶ

ソマリア出身の友人から、ソマリアは日本と同じような国だと聞いたことがあります。大体みんな同じ宗教で、同じ言語を話して、同じ文化を共有しているそうです。それなのにソマリアでは1991年に内戦が起きてから26年も経っているのに、いまだに国が安定していません。各部族がお互いを攻撃したり、辱め合ったりしています。武器があふれていて、この友人によれば、ソマリアではトマト1個を買うよりも武器一つを買う方が安いそうです。みんなが武器を持っているので、どうにもならないのです。

それでも、少しだけ希望のある話を聞きました。ソマリア難民がたくさん暮らしているケニアのダダーブという難民キャンプに行った時、若いソマリア難民に会いました。自分たちはこの難民キャンプの学校で、話し合いをする、対話をするということを学んでいると話していました。自分たちより上の世代の人たちは、対話で物事を解決するということを知らないから、すぐ武力に頼り、戦争になってしまう。自分たちはこの難民キャンプでの生活を通して、自治とか選挙とか、女性のリーダーシップといったことを学んでいるというのです。UNHCRダダーブ事務所長は、ここで育った若者が将来自分の国に帰った時に、対話によって物事を解決できるようになることを目指しているのだと話してくれました。

例えば、1980年代、ベトナム、ラオス、カンボジアはまさに戦場でした。たくさんの人たちが亡くなり、東南アジアは難民であふれていたのです。でも今では、ベトナム、ラオス、カンボジアといえば観光地です。楽しくあちこち訪問できますよね。それはなぜでしょうか。

皆さんの中には国際交流事業に参加したことのある方がいらっしゃると思います。私は「東南アジア青年の船」事業に参加して、ベトナムやカンボジアの青年たちが初めて乗船してきたときのことを覚えています。彼らはすごく緊張していました。それでも、2か月のプログラムを終える頃になると、仲間と自然に混じり合うようになっていました。こういう一見地味な交流活動を毎年続けていくと、お互いに影響し合って、難民キャンプで出会った若者が言っていたように、対話する、話し合うということを学んでいくのだと思います。

国際交流の場は、他の国の人はこんなことをしているんだとか、自分たちの社会以外ではこんな生き方もあるんだということを知る機会になります。こうした交流を地道に5年、10年、20年と積み重ねていくことが、社会の変化につながっているのではないでしょうか。例えばミャンマーは、まだいろいろありますけれど、民主化の方向に動いていますよね。これは、長年にわたって「青年の船」のような事業に参加した若者たちが今では政府の要職に就くようになり、「自分たちはこのままではダメなんじゃないの?」なんて思うようになったからかもしれません。このように一人一人の視野が広がることによって、社会は変わっていくのではないかと思います。ですから、みなさんが関わっているこのIYEOの活動は、すぐには見えないけれど、長い年月を積み重ねることで、必ず社会を良い方向にもっていくことができる大切な活動なのだと感じています。

はみ出してしまった人を支える仕組み

では、ここからはUNHCRの役割についてお話しします。家を追われた6,530万人のうち、500万人程がパレスチナ難民で、パレスチナ難民救済事業機関という別の国際機関が対応しています。その他の人たちがUNHCRの援助対象となっています。UNHCRの現地事務所は現在128か国にあります。職員数は約9,400人でこのうち日本人が約80人です。その内8割が女性です。恐らく緒方貞子さんがすばらしいロールモデルだったので、みんなUNHCRに入ったのかもしれません。

UNHCRのキーワードは「国際的な保護」protectionです。保護とは国家がその構成員を守るという概念とも言えます。でも、難民は自分の国から追い出されたり、自分の国にいる人たちから迫害されたりして、自国の政府からは保護してもらえない人たちです。その人たちを国際的に守る任務がUNHCRに与えられています。

国連機関で働いている私の友人から、国連機関の中で絶対に必要なのは恐らくUNHCRだろうと言われたことがあります。それは、国からはみ出す人が必ずいるからです。今の地球全体を仕切る仕組みというと国連システムぐらいしかありません。国という構成単位で世の中はできていて、国連にも国として加入するわけです。個人では入れません。各個人によって構成されている国という枠組みからはみ出す人がいる以上、彼らを支える仕組みが必要です。それがUNHCRに与えられた役割です。本来なら自分の国に保護されるべきなのに、そうではない人がどこかの国に落ち着くまで国家間の連携の中で保護することがUNHCRの役割なのです。

UNHCRの活動 (表3)

UNHCRは様々な活動をしています。緊急援助活動は、自然災害が起きた直後の活動に似ています。テントがあちこちに張られたり、どんどん食糧を運ばなければならなかったり、命を守るためにみんながすごい勢いで活動を展開する状況です。その後、だんだん落ち着いてきて、中長期支援に入っていきます。難民は、いわゆる人的災害に至った根本の対立が解決しないと祖国に帰ることはできません。下手をすると20年も30年も宙ぶらりんの生活をしなければなりません。この期間もUNHCRは見放すわけにはいきません。緊急支援の間はメディアが取り上げてくれるので、援助資金が集まるのですが、中長期支援となると、だんだん誰も注目してくれなくなります。UNHCRはそういった時に、例えば、サハラ砂漠にいるこの人たちはまだ難民のままですよ、とか、コロンビアの国内避難民の問題を忘れていませんかといったアピールを出して、国際社会に注意を促したり、各国政府や民間の皆さんに資金の提供をお願いしたりするという活動を続けます。

表3

難民でない状態になるためには、三つの解決方法があります。一つ目は、平和になった故郷に帰る「帰還」です。二つ目は、避難先の国に受け入れられる「庇護国での定住」です。三つ目は、第三国での定住です。すべて、政治的な解決や各国の協力がないとできない活動ばかりです。

希望がなくなるとテロリストになる

難民でいる間、何もせずに暮らすのは人間として無理ですから、教育支援とか職業訓練などを提供して、最終的な解決である帰還・定住支援・第三国定住に向けて希望をつないでいきます。希望をつなぐことがとても大切です。なぜなら、希望がなくなると自暴自棄になり、テロリストになってしまうかもしれないからです。UNHCRは、難民状態にある人に希望というメッセージを与え続けるために存在しているのかもしれません。国際社会は見捨てていないですよ、というメッセージを少なくともそこにいることによって発信できるのです。私がミャンマーにいた頃から、ロヒンギャという人たちの問題には何の解決も見いだせませんでした。でも、ロヒンギャ系のローカル・スタッフから言われたのは、「いてくれるだけでいいんだ。いてくれるということは、世界が自分たちを見捨てていないということなんだ」という言葉でした。UNHCRでは「Protection by Presence」と言います。存在することによる保護。UNHCRはそこにいるということに意味があるのです。

日本とUNHCRとの関わり

表4

日本とUNHCRとの関わりについても少しお話しします。まず、1978年に初めてインドシナ難民の受入れを決定したことです。1981年に難民条約に加入し、その10年後に緒方貞子さんが国連難民高等弁務官に就任し、さらに10年後に国連UNHCR協会という民間の皆さんとの窓口になる組織ができました。

これはUNHCRの毎年の予算を示した表ですが、緑色の予算に対して、実際に集まった資金は約半分にしか達していません。(表4)毎年集めて毎年使うというのが人道支援の世界です。開発支援の場合は、例えば、これから5年間に必要な資金のめどをつけて、それをきちんと計画的に使っていくそうです。一方、人道支援は自転車操業のような世界で、集めながら使っていきます。結果として、計画していた事業の半分くらいしかできないという状況が毎年続いています。

そのため、民間からの資金が頼りにされるようになっています。これは私たちの協会の2015年までの寄付金総額です。(表5)民間で協力の輪を広げるために、2000年10月に設立されて以来、地道に活動を続けてきました。今では、多くの方々が継続支援である「毎月倶楽部」に参加してくださり、UNHCRの活動資金を支えてくれています。

表5

さて、私たち一人一人にできることとして、「知る、広める、参加する」という活動があります。

「知ってもらう」ために毎年、UNHCR難民映画祭が開催されています。今年で12回目になります。9月から11月にかけて、日本各地6都市で開催しますので、ぜひご参加ください。

国連UNHCR協会が応援している大学生の活動も紹介させていただきます。2月の東京マラソンの際には、大学生が「難民かけはしプロジェクト」という名のもとで、難民の学生と日本人の学生がチャリティランナーとして走るという活動を行いました。また、学生団体SOARは、ワークショップを出張授業として実施しています。このワークショップを通じて難民問題を知り、今の自分がどれだけのものや人に支えられているかを振り返ることができます。では、休憩をはさんで、ワークショップ「いのちの持ち物けんさ」を体験していただきましょう。

平成28年度内閣府青年国際交流事業

航空機による青年海外派遣報告会

平成29年2月5日(日)、国立オリンピック記念青少年総合センターにて、平成28年度国際青年育成交流事業及び日本・韓国青年親善交流事業の報告会を実施しました。参加青年、来場者、関係者を合わせ、合計250名規模での報告会となりました。

参加青年は事業紹介や訪問国活動の成果発表、パネルディスカッションでそれぞれの成果を伝え、またブース展示の時間では、内閣府青年国際交流事業の魅力や価値について、来場者と直接意見交換をしました。

<プログラム>
時間 内容
13:00 開会式
13:15 プログラム概要紹介
13:25 内閣府青年国際交流事業紹介
13:40 各派遣団成果発表
14:25 パネルディスカッション
15:05 平成29年度内閣府青年国際交流事業
説明及び募集について
15:30 各派遣団等ブース展示
16:30 閉会式
内閣府青年国際交流事業の特徴を分かりやすく紹介する
(内閣府青年国際交流事業紹介)
個人の成長や今後の目標を来場者に伝える
(パネルディスカッション)
訪問国ごとに学んだことを伝える
( 各派遣団成果発表)
来場者と直接交流しながら意見交換する
(ブース展示)

第43回「東南アジア青年の船」事業報告会

平成29年2月26日(日)、国立オリンピック記念青少年総合センターにて、第43回「東南アジア青年の船」事業報告会を実施しました。一般の参加者及び参加青年、関係者を合わせ、合計175名が報告会に出席しました。

プログラム
13:00 開会式
13:20 「東南アジア青年の船」事業概要説明
13:45 パネルディスカッション
14:45 平成29年度内閣府青年国際交流事業募集説明
15:00 展示・座談会
16:15 閉会式
事業概要を説明する

第43回「東南アジア青年の船」事業報告会 実行委員長 前川翔太

私がこの「東南アジア青年の船」事業を知ったのは7年前の中学2年生の時でした。

参加青年たちによる文化紹介プログラムに参加し、彼らの文化に触れました。それまで東南アジアの国々の文化を知らなかった私にとって彼らの文化は未知の世界でとても刺激的な機会でした。そしてちょうど1年前私はこの報告会に参加し、自分と年齢の変わらない参加青年たちがこの事業で挑戦してきた数々の体験談を聞くことができ、自分も参加を決めました。

今回の報告会のテーマとして「私たちの航海日誌〜発見の積み重ねが未来をつくる 」という標題を掲げました。

日本参加青年は11か国の参加青年とにっぽん丸で活動を共にしてきました。彼らとの交流を通じて私たちは様々な発見をしてまいりました。その発見は一人一人が壁に立ち向かい乗り越えたことで見えた新しい景色です。

本日はそんな私たちの発見を是非みなさまに共有させていただければと思います。

パネルディスカッションで「発見」について説明する
発表を熱心に聞く聴衆
展示ブース
来場者の質問に答える参加青年

青少年国際交流を考える集い(ブロック大会)

近畿ブロック大会

期 日: 平成29年1月28日(土)~1月29日(日)
会 場: 青少年宿泊研修センター
OAAはりまハイツ(兵庫県加古川市)
テーマ: 地域に根差しながら考える国際協力、
地域活性化~兵庫県からの発信~
本山シェフによる調理ワークショップ(分科会1)
1月28日(土)
13:00 開会式
13:35 基調講演 講師:本山尚義氏
「世界の料理が教えてくれるものとは?~フランス料理、
インド料理のシェフを経て、難民・飢餓支援に至るまで~」
15:00 分科会
  • 本山シェフによる調理ワークショップ
    (講師:本山尚義氏)
  • 国際協力セミナー
    「兵庫県から始める国際福祉」
    (講師:アジア子ども基金代表 西澤砂弥香氏)
  • 酒造見学を通して地域との共存共栄の在り方を探る~酒屋「岡田本家」の事例から学ぶ~
17:15 帰国報告会
18:15 チェックイン・休憩
19:00 夕食
20:00 懇親会
1月29日(日)
9:00 事後活動報告会
11:10 閉会式
13:00 地域理解研修in姫路(任意参加)
  • アフリカンランチ(ビストロゼブラ)~姫路城
  • 酒蔵見学(灘菊酒造)~姫路城
工夫した点(実行委員会からのコメント)
  • 神戸市以外の兵庫県を知ってもらおうと、開催地を加古川、地域理解研修を姫路というように県西側を中心に設定した。
  • 帰国報告会を初日に設定し、報告予定の青年たちが発表のためだけに来るのではなく、基調講演、分科会にも参加してもらえるようにした。
参加者の声
  • 本山さんの基調講演。世界を旅した料理人というのはそれなりにいるが、大好きな料理すら手段ととらえ、料理店を閉店してレトルト工場に大転換するという大胆さには出会ったことがない。そして高価なレトルトにもかかわらず、売り上げをどんどん伸ばしているそうで、自由な生き方の成功事例として大変感銘を受けた。世界の問題への気付きを多くの人に与えるという目的志向がすばらしい。
  • 団体として活動する上で重要だが、実際には見えにくい事務的な面(資金、申請など)を学ぶことができた。実践を兼ねたワークショップも良かった。(分科会2)
  • 杜氏のトークが面白く、岡田本家の歴史や新しい挑戦、日本酒の製造工程など普段なかなか知ることのできないことを体験できた。なかでも米が発酵する音を生で聞けて感動した。(分科会3)
  • いろいろな方が強い思いを持ち、行動して、つながっていること、活動していることが分かって良かった。(事後活動報告会)
参加者数:66名
西澤氏による国際協力セミナー
(分科会2)
酒屋「岡田本家」を訪れる
(分科会3)

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